旧山陰道の宿場町、赤碕宿(鳥取県東伯郡琴浦町)

旧山陰道:赤碕宿(鳥取県東伯郡琴浦町)の現在

旧山陰道は、畿内と山陰道諸国の国府を結ぶ官道で、日本海側を京都から、周防国に至る街道です。現在では、国道9号線がこれを継承していますが、ルートは若干異なります。鳥取県中西部の伯耆国では、より海岸に近いルートになります。東伯郡琴浦町にある赤碕は、山陰道の宿場町として、陸路海路の交通の要所として栄えました。

現在も、昔の雰囲気が残る宿場町「赤碕」

「赤碕」は古くからの港町ですが、江戸時代は北前船が寄港し、藩米の積み出し港となり、町には船番所や藩倉、商店や旅館が立ち並んでいたそうです。両脇に家が建ち並ぶ写真の道が、まさに旧山陰道だそうです。道幅や道の曲がり具合など、古い街道であることがよくわかります。集落全体的に板張りの外壁や瓦屋根がまだ多く残っていて当時の雰囲気を感じられます。

以前は赤瓦(石州瓦)の家が多かったらしいですが、数年前の鳥取中部地震の際に、黒瓦に葺き替え直した家が増えたそうです。琴浦町から内陸に入った「倉吉の白壁土蔵群」に多い焼杉の黒い外壁と、少し雰囲気の違う素朴な港町&宿場町の風景です。多くの家の鬼瓦が「えびす様」で、屋根の上で笑っている感じや、小道の脇のお地蔵さんの社などが、とても印象的でした。

「神崎神社」脇の高台から見る宿場町全体の様子

旧山陰道沿いに建つ塩谷定好写真記念館

塩谷家は現在で9代目を数え、約200年の歴史のある旧家。屋号「塩屋」を名乗り、江戸中期より赤碕に住居。江戸末期から明治初期にかけて、菊港を母港とする回船業(所有船・蛭子丸「えびすまる」)を営み、北前船で米や海産物を商ったそうです。建物は、明治39年(1906年)に海運業の本店として建てられた町屋作りの建物で、現在は2階建ての本宅と、4つの土蔵及び庭園で構成されている。1階と2階に十畳の客間があり、当地方においては珍しい構造となっている。2階の螺鈿づくりの床の間や、各部屋の建築材料に趣向が凝らしてあり、海運業などの事業を営んでいた当時の塩谷家の生活ぶりがうかがえます。

塩谷定好(しおたに・ていこう 本名、しおたに・さだよし)

1899年(明治32年)、鳥取県東伯郡赤崎村(現琴浦町)生まれ。芸術写真の分野で国内の草分け的存在として活躍。大正時代に一世を風靡した単玉レンズのカメラ「ヴェスト・ポケット・コダックを愛用し、軟調描写(ソフトフォーカス)が作品の特徴。生まれ育った故郷を愛し、生涯にわたって山陰地方の自然を撮り続けたそうです。

地元では「荒神(こうじん)さん」の愛称で親しまれている「神崎神社」は、室町時代末に創建されたらしいですが、本殿、拝殿はそれぞれ、1853年、1879年に建立。本殿は、方二間(桁行2.06m、梁行1.91m)の権現造りで、通称八ッ棟造りといわれています。当時の繁栄を感じさせる豪華さで、社殿、彫刻とも一見の価値があります。拝殿の天井部いっぱいに彫られた龍の彫刻は、パワースポットとしても注目されているそうです。御祭神は、素戔嗚尊(スサノオノミコト)。